喉元過ぎれば熱さを忘れる

今月に入り、なるべく毎日アップしようと頑張っています。
しかし、なかなかネタが…
集中力が続かない…
ということで、昔の記事を引用しようという手段に出ています。
自然と過去記事を読むのですが…。

あぁ、こんなことあって、あんなこと思っていたな~。
取り合えず、こちらの記事をよんでみてください。

⇒『努力』について

2013年の記事なんですが、すっかり忘れていました。
最近は、大きなけがをすることも無く、平穏無事なことも多くなってきて…、結果として、なんでも当たり前になってしまってました。
チャレンジできることは、頑張れることは、ありがたいことなのだ!
心からの感謝をし続けるって、結構難しいな~。
形だけなら、いくらでもできるけど、心の奥底で、不平不満があったり、大変だな~って面倒に思ったり…。

なかなか至りません。
まぁ、それが私の伸びしろ…って、ネタが古いですね。
とりあえず、明日がんばろ。




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病気って、何なんでしょうか

すっかり寒くなってきました。天気がいいからとうっかり薄着で外に出ると、風が冷たいです。

さて、最近「病気って、何なんでしょうか?」と聞かれることが増えてきました。
病気は、悪いものだから、治す…と単純に思っていたことに、少し疑問がでてきた…ということかなと、感じています。
当たり前と思っていたことに、疑問を持つというのは、とても素晴らしいことだと思います。

病気に対して、いろんなとらえ方ができますが、プラーナからみる病気のとらえ方は、説明するのがけっこう難しいです。
プラーナ自体、言葉での説明では限度があり、少なからず、ずれてしまうと思うからです。

ちょっと話がずれてしまいますが、10月の終わりに山に一緒に行く方に、着るものに関して質問を受けました。
天気や状況によっても、あと暑がり寒がりという個人差にもよります。
いろいろ確認のために質問をしてみますが、どうも要領を得ません。
そんなときその方が、
「山の寒さって初めてだから、想像もできないんです」

そうなんです。実際に体験してみないと、分からない事ってあると思うのです。
今まで経験したことの無いようなことは、想像も予測もできないのが、普通なのではないでしょうか?

プラーナの難しさはそこにあります。
プラーナは訓練すれば、だれでも感じられるようになるのですが、五感に頼り過ぎたり、霊能力や気を日ごろから使っていると、プラーナは感じられないようです。あと、第六感、つまり、感じることに頼っていてもそうです。

さて、過去に書いたものに、病気に関しての考え方などもありましたので、リンクいたします。
長い冬の夜のお供に…。



自分を縛るもの

心と体と魂を癒す療法 ホメオパシー

ホメオパシーからみた病気


ホメオパシーで身体と向き合う

身体と心に向き合う、ホメオパシー



「いただきます」

修行…というと、荒行や苦行を思い浮かべるのではないでしょうか?
「わたしはこんなすごい修行をした」とか聞くと、すごいなっと思うし、尊敬もすると思います。
でも実際に、修行の中で生活をしている方をみていると、もっと静かなものだと気が付きます。
お坊さんは、生活のすべてが修行です。
比叡山のお寺でお食事をいただくとき、「食前観」と「食後観」を唱えます。
食事そのものが修行になるんです。
そう聞くと、ちょっと堅苦しく感じるのでは?
わたしは、感じました。そして、とても面倒くさい気持ちになり、翌日に控えている荒行よりも、憂鬱な気持ちになりました。

しかし、やってみると普通のことです。
「いただきます」「ごちそうさまでした」を言う、ただ目の前にあるごはんを味わう、用意していただいたかたに「ありがとうございました」といって、後片付けをする…。




食前観 
 我 今 幸いに 仏祖の加護と修行の恩恵によってこの清き食を受く
 つつしんで食の来由(らいゆ)をたずねて
 味の濃淡を問わず
 その功徳を念じて
 品の多少をえらばじ
 「いただきます」




いいなぁと思って、今日はなんども心の中で反芻しました。
そうしたら、いろいろごちゃごちゃいわず、なんでも与えられたものを「いただきます」と、私は、言っているのだろうか…
とふと思いました。

食事のことだけではありません。
自分が考えることなく与えられていて、あたりまえと思っていること…。
生まれ育った環境、顔かたち、背丈、体質、日々起きること、周りの人たち…

ついついいろんなことに、あれは食べたいが、これは食べたくない。
もっと甘い方がいいとか、塩気が足りないとか…
そう思ってはいないだろうか?

つい私たちは、健康であることが当たり前で、病気になると
「こりゃ大変だ!」
と、災いが襲ってきた…と思い、毛嫌いします。
あっちが痛い、こっちが痛い…。

いや、たしかに、イヤです。
でもその意味を来由を、静かに考えているだろうか?
慌てて災いを無くそうと、右往左往していないだろうか?




食後観
 我 今 この清き食を終わりて 心ゆたかに力 身に充つ
 願わくは この身心を捧げて
 己が業(わざ)にいそしみ
 誓って 四恩(しおん)に報い奉らん
 「ごちそうさまでした」




修行の中で生活をしている方々は、神仏の御働きにも触れることになるのだろうと思います。
そうなると、そうそう慌てることもなく、迷うこともなく、どんなことが起きても、平穏な中に身心を置くことができるのではないのだろうか…
などと、考えていました。

どう感じるか…は、人それぞれですが、食事の前後に、手を合わせてみるのもいいかもしれませんね。








我慢が、我慢でなくなった瞬間

私は3人兄弟の長女です。妹と弟は、二卵性の双子で、わたしとは7歳離れています。
両親は共働きで、母もフルタイムで働いて、残業も休日出勤もありました。
母が遅い時は、作り置きしていたシチューやカレーを温めて、弟と妹に食べさせます。
温めるだけなので大したことはしていないのですが、親がいない夜の保護者的な存在であることには違いはありませんでした。
親代わりなのだ…という自覚はありました。

実家の福島は、果物王国なのでほぼ1年中果物を毎日食べます。
おやつを分けるのも私がやることが多かったです。
母はわりとざっくりなので、ぶどうはだいたいのところで切って3等分します。
しかし、何事も公平で損をしたくない妹は、「本当に同じなのか?」と、いろいろ説明しても納得がいきません。
母は、「良いから食べろ」と取り合わないのですが、妹はずっと怒り続ける子だし、気持ちもわからなくもないので、仕方なく、全部1粒ずつ皿に分けていきます。
デラウェアなんかは、房に付いていた方が、おいしそうなんだけど、豆のように皿において、全部数が同じことを証明しなくてはなりませんでした。1つでも違うと「ズルい」となり、弟がこんどは「ズルい」となるので、そんなときは、わたしのを1つあげていました。

しかし、心の中では、「私だって多くだべたい。なんで私だけこんなに我慢しなくてはならないんだ」と、悔しい思いをしながらあげていました。小学生だった私は、3~4歳の子がぐずるをなだめるのも、喧嘩するのも、面倒でした。だから我慢しました。

いちご好きな私は、いちごをわたしのを少なく分けるときの葛藤は相当なものでした。
妹は分け終わるまで不正がないか、しっかり見ているのですが、ちょっとごまかして、一瞬で口に入れようか…と、いちごをガン見していたこともあります。

そのたびに心の中では、いろんな私が作戦会議をしています。
でも、結局不正はしませんでした。

そんなことを1年くらいやっていたでしょうか。ある日、フッと、自然に私のを少なくわけることが出来た瞬間がありました。
それはとても突然で、とても不思議な感覚でした。
もう辛くないのです。
あれほど胸を焼き尽くすような執着が、一瞬で抜けた感じです。
いつも訪れる心の葛藤がなく、あまりにも強烈な経験だったので覚えています。
小学2~3年の頃でもありましたし、単純に我慢できる年齢になったからかもしれません。

それとともに、悔しい気持ちをずっと自覚して、認めていたことも良かったと今は思います。
「本当は、やりたくない。私だっていっぱい食べたいんだ。私だけ我慢なのんてイヤだ」
そんな気持ちをちゃんと自覚し、でも、行動では、グッと我慢していた。しかも、親に言われて我慢したのではなく、自分でどうするのがいいかを考えての行動だった…ということも大事なポイントだと思います。
そして、このことに関しては、妹を責める気持ちよりも、「そりゃあ食べたいよね」と、共感する気持ちの方が強かったように感じます。もちろん、他のことでは思いっきり妹を責める気持ちがありますよ。
つまり、抑圧をせずに、だからトラウマにもしなかった経験…。

それ以降は、気持ちよく分けることができるようになりました。
なにより、気持ちが楽になったということがうれしかったと記憶しています。

この経験があったから、小さい時から、「人は変われる」と信じていました。
自分の性格は治せると。それはそれで、素敵な自分を作ろうとして本来の自分から離れてしまうことになるのですが…。

我慢するということ自体、ある程度練習しながら、ある程度の年齢にならないと出来ない事でもあります。
考えてみたら、子供が親代わり…というのは、無茶な話なんですよね。
大人には大人の仕事、子供には子供の仕事…。
同じではないのです。
ちゃんとやれば、大人のように出来る…というのは幻想にすぎません。

 

ライフサイクルから考える生き方

前回のブログで紹介した、ホメオパスのジャン・ショートン氏は、ライフサイクルという考え方から元素表を成長の流れにみたてています。そして、グループ分析のメソッドという、独特のやり方を考案しました。

ライフサイクル」という言葉は、よく使われるし、あてはまる場面も多いので、知っておくといいのでは…と思い、コトバンクから引用させていただきます。

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商品が市場に投入されてから姿を消すまでの流れを表すもの。もともとは、人生の経過を円環に描いて説明したもので、商品を生物にたとえた表現。ライフサイクルは、「導入期」→「成長期」→「成熟期」→「衰退期」という4つの段階をたどる。また、成長期を「成長前期」と「成長後期」に分けたり、成熟期と衰退期の間に「飽和期」を加えるなど、5段階や6段階のサイクルに分類するケースもある。ライフサイクルという考え方は商品だけではなく、情報システムや運用管理、改善計画など、最近では多くのビジネス現場で使われるようになってきた。

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ジャン・ショートン氏は、元素表を上の段から、「存在」「自我」「友人」「労働者」「発明家」「王」と段階を付け、それぞれの段階で必ず、「始める」→「成功する」→「終息する」という波があり、1つの段階が終息して初めて、次の段階が始まると書いています。
つまり、ある段階の終わりがなければ、次の段階の始まりはあり得ません。
また、そこの場所にとどまり続けていることも、自然ではありません。必ず、始まりがあれば終わりがあります。
問題は、一時の流れであり、次に進まずに停滞しているから、問題や障害としてあるのです。
流れの詰まりが問題であり、病気になります。
不都合な状態であっても、それは流れの1つ。
とどまらずに魂の流れの波に乗ることが、健全な生き方になるという考え方ということでしょうか。
私は、そうとらえています。

♪。゚o。(★・ω・)人(・ω・★)。o゚。♪。゚o。(★・ω・)人(・ω・★)。o゚。♪

くるりんの勉強会「身体とこころの成長とプラーナ」では、人の成長を、ライフサイクルから学んでいきます。
今世だけでとどまらない、魂の成長についても学んでいきます。
毎月1回、10:00~12:00 参加費 3000円で行っています。
日程は、毎月ブログでアップしますので、お見逃しなく。

お問合せ ⇒ くるりん事務局



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プロフィール

くるりん 村上

Author:くるりん 村上
日本人が元々もっている内照するような感覚を日常に取り入れてみると、自分を客観視することができ、自分の考え方の癖に気がつき、見えてこなかった真実に気がついてきます。私たちのほとんどは、自分の人生を自分の足で歩いていないのです。世間体とか周りの人たちとか、みんな…という誰かの価値観の中で生きています。でも本来私たちは愛の存在であり、愛に包まれています。だから、私たちはもっと自由に自分らしく生きても、いいのです。
くるりんでいうところのインナーチャイルドとは?
ホームページはこちら。
http://kururin.wix.com/p-kururin

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