「死ぬ瞬間」と死後の生

とても良い本だとわかっているのに、私自身、とても必要な内容だとわかっているのに、どうしても開けない本がある。
本棚に置いてあるその本に、何度も手を伸ばすが、他の本を手にしてしまう。
そうやって何年も本棚に眠ったままの本。
マイケル・J・フォックスの「ラッキーマン」もそうだった。
はじめにの部分を呼んで、すでに辛くなってしまって、本棚に5年眠っていた。
読み終わったときに、しみじみと、あの時の私では、読めなかったな、無理だったな…と改めて思う。

E・キューブラー・ロスの「死の瞬間」もそうだ。
師匠のホームページで知って、中古の本屋さんで見つけて購入したはいいが…
何度も手を伸ばすが、本当に読めたのは、3年たってからだった。
あぁ、あのときに必要な内容が書いてあったじゃん、って思う。
そして、何冊か読んでみた。

別れが苦手だったわたしにとって、「死別」というのは、もっとも受け入れがたいものだった。
それがちょっとした知り合いで合っても、遺族の方の気持ちを思うと、なにも声をかけられず目をそらすしかなかった。

そして、最近知ったのが、『「死ぬ瞬間」と死後の生』という本。
読んでみたら、生きる人のための本だ。
こういうことを知ったうえで、生きることを考えようよ…という感じの内容。

死をダイレクトに考えたり、受け止めたりする内容は、本当に読み進むのが辛かったりするけど、この本は、とても入りやすい内容だと感じた。
しかも、生きる上で、ぜひ知っておいた方がいい内容。
年齢を重ね、棺桶に片足を突っ込んだなって思って、初めて、「さて…」と考える方が多いと思うけど、死というものを、年齢に関係なく、ちゃんと一度は考えて欲しいと思う。

若いければ若いほど、死が遠くに感じてしまい、永遠に生きれるように感じる。
そうしたら、大切なことをつい先延ばしにしてしまう。
目の前の快楽を追い求める、虚しい年を重ねてしまうだろう。

もし、死んだら消えてしまうだけ…と考えたら、耐えたり、辛抱する意味が理解できなくなってしまう。
わたしだったら、身体のことも考えず、好きなように、夜更かしして、ろくに食べもせずお酒を好きなだけのんで、たばこを吸って、その場その場を楽しもうとしてしまうだろうな。

じっくりと、味わいながら生きるためにも、「死」と「死後の生」のことを知っておいたほうが、死ぬ瞬間の後悔が少ないように思う。
死んだ後まで、「あぁしておけばよかった」「あぁしなければよかった」などど、後悔ばかりしたくない。
生きているうちだけで十分だって思う。
そのためにも、一度、死というものにじっくりと向き合いたいなって思う。

ところが、「死」とか「死後の世界」となると、取り扱かっているのは、結局、宗教ってなことになる。
私が、一番苦手としていた分野だ。
だけどくるりんでやっていることが、「死」や「死後の世界」も扱う以上、どうしても宗教色が強くなるのは、仕方のないこと。
元々は、哲学の世界では、宗教的な内容も含まれていたらしいし、科学と宗教との境は、あいまいだったようだ。
しかしいろんな歴史の中で、専門分野がきっちりとしてきたらしい。

どの分野でも、人が健康で、幸せに生きるってことがテーマであれば、結局、宗教的な「死」や「死後の世界」も考えあわせないと、なんだか無理が生じたり、分野によって、矛盾がでてきたりするように感じる。
近々、死後の生について、話をしていきたいな…。
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祈りについて

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19日は、「魂の求める生き方」という勉強会でした。
大切な内容だったので、遠方の方とか、予定がある方とかのために、DVDによる補講も可能にしようと考えていましたが、気が付くと録画がされていませんでした。楽しみにしていただいた方、申し訳ありません。
大切な内容なだけに、やはり、わざわざ足を運んでいただくことが大切なのかもと考え直しました。
内容に反省点もありましたので、また焼き直して、3月に行いたいと思います。

今回は、そのことについて書きたいのではなかった…。
くるりんでは、霊性やプラーナにかかわる勉強会(インナーチャイルドの癒しの勉強会もそうですが)、始まる前に、般若心経を読誦します。
勉強会の内容は私が独自に創作した内容ではなく、神様仏様からいただいた内容を私なりにお話しさせていただいていると、思っているからです。
神様仏様からいただいた内容といっても、よくあるような、天から降ってきたように神様の声が聞こえたりするわけではないですよ。
長年、古神道の神官である師匠に付いて修行をしていますが、そこでいただいた古の叡智から、現在版に書き換えて、私なりの理解で原稿をかいています。わたしは、見えも聞こえもしませんから、そこは期待しないでくださいね。

高い霊性の神様や仏様は、プラーナによってしか感じることはできないので、見えたり聞こえたりする霊感では感じることはできないないようです。また、次元が違うので、もし普段から霊感を感じる力を使っていると、残念ながらプラーナを感じるようになることはできません。自分では自覚していなくても、霊感を使える方は、けっこういるような印象を持っています。だから霊感は、必ずしも、特別な力ではないようです。しかし、パソコンと一緒で、使えるからと言って、セキュリティなしで、また、知識無しで使わないほうが無難でしょう。なりすましやフィッシングは、ネットの世界だけではないので…。

おっと、また話がそれてしまいました。
そういう意味で、より私たちの身近に感じる仏様にご守護をお願いするという意味も含め、勉強会の前に般若心経を読誦します。
個人レッスンの始まりも同じです。話に夢中になり、つい忘れてしまったりしますが…。

最近では、巷でも、般若心経を読誦する会とか、写経会なども盛んにおこなわれるようになっていますし、坐禅や呼吸法などのが「マインドフルネス」といって、海外でも盛んにおこなわれているようです。東京都内のお寺の坐禅会にいくと外国人の方がけっこういらっしゃいます。自己鍛錬もあるでしょうが、もっと気軽なリフレッシュ効果も期待されているようです。

また、祈りの効用も科学的に研究されているようで、実際に、オキシトシンやドーパミンなどの幸福感を感じたり、ストレスを緩和するのに大切なホルモンへの影響も実証されているようです。

へ~と思って、いろいろ考えてみると、どの宗教であれ、ほとんどの宗教の祈りの言葉というのは、ポジティブな言葉で成り立っていることに、今更ながら気が付きました。
神様に愛されているとか、許されているとか…祈りの言葉は、そんな言葉が多いのではないでしょうか。

では、私が毎日唱えている、神道では…
有名なところでは、「百体清浄太祓い」というのがあります。
そこに最後の方に出てくる言葉
「天地(てんち)の神と同根(どうこん)なり、天地の神と同根なるが故に、
萬物(ばんもつ)の霊(れい)と成る、萬物の霊となるが故に、
為(な)すところの願(ねが)いとして成就(じょうじゅ)せずということなし
慎(つつし)み敬(うやま)い申(もう)す。」

天地の神と同根なり…「自分は神様と同根なんだ」
自分はそういう存在であるという、これほどポジティブな言葉はないのではないでしょうか。
神様と同根だから、「これでいいのだ」と済ますことも出来ますが、だからこそ、それに恥じないような自分、神様と同根であるという誇りを持った自分で、少しでも、神様に近づけるようにと、遥かに遠いところを目指し、地道に努力し続ける。
「為すところの願いとして成就」、そんな意思表明のような神道の祈りを私は、とても美しいと感じます。
神道とは、文字通り神へ至る道です。神様を目指す、そんな神道という生き方は、本当に謙虚な生き方だなと、最近つくづく思うようになりました。

そして、日本では八百万の神といわれるように、なんでもかんでも神様が宿ると言います。人の魂も神様の分霊と言われます。そうなると、いたるところに神様がいます。有難いことです。有難いことですが、いたるところに在ると、無いも同じで、つかみどころがありません。まるで空気のような感じです。
つい無いように感じてしまい、有難みを忘れてしまいます。常に見守り、手を差し伸べられていることを忘れ、私たちはつい、もっとわかりやすいものを、ありがたがる傾向にあります。勿体ないことです。

祈りの時間…神道では神棚の前で唱える時間は、神様のことを想い、感じることのできる、貴重な時間でもあると、私は、とらえています。


「14歳からの哲学」から、おまけ

16 恋愛と性

「○○君は✖✖さんのことがすきなんだって!」というのが、友達の間では、いつもすごい関心の的になるよね。あるいは、同性の友達のことで悩むよりも、異性の友達についての関心の方が、もっと切実なものがあるかもしれない。どうしてそうなのだと思う?

これはまったく単純な理由だ。そこに性欲があるからだ。性欲、つまり性交をしたいという欲求だ。なぜ性交をしたいという欲求があるかといえば、子供をつくって子孫を増やすという生物としていの本能が、そうなっているからだ。性欲というのは食欲と同じ本能的な欲求で、その意味ではまったくの自然なんだ。

ところが、生物として子孫を増やすというそれだけのことなら話は単純なのだけれども、人間という生物の場合だけは、そう単純にはゆかない。他の動物の場合には、決まった発情期というのがあって、1年のうちその期間だけ発情して性交するという仕組みになっているのに、なぜか人間にだけは、発情期がない。つまり、年がら年中のべつまくなし発情している。いつでも性交できるし、いつでも性交したいという状態であるわけだ。

そうすると、それが本来は子供をつくるための本能の仕組みであったという事実を、人は忘れがちになる。忘れて、性交によって発生する快楽の側ばかり関心がゆくようになる。そのうえ、性交するたびに子供ができるのでは大変なことになるというので、性交しても子供ができないような工夫をも人間は開発したから、性交と生殖とを完全に切り離すことが可能になった。つまり、性交の目的を生殖ではなくて快楽に限ることができるようになったんだ。こうして、性交とは、生殖の欲求ではなくて快楽の欲求であると、実際に人々は思うようになっているというわけだ。

「○○君は✖✖さんのことがすきなんだって!」という話題に夢中になるのは、そこに、この快楽への予感があるからだ。本来は本能なのだけれども、字義通りには本能ではなくなっているところの、その快楽への欲求があるからだ。本能であるところの食欲が、食べること自体を楽しむことによって、さまざまな食文化があるように、本能であるところの性欲も性交すること自体を楽しむことによって、さまざまな性文化を生むことになる。食文化における料理に当たるものが、言ってみれば、性文化における恋愛だ。恋愛は料理、自然ではなくて、あきらかに文化の一種なんだ。人間の性が、他の動物と違って、話が単純でなくなる理由もここにある。

   (中略)

これはよく考えると、すごく不思議で面白いことなのだけど、多くの人は、この不思議に気が付かずに、というよりも、刹那の快楽への欲求に目がくらんで、恋愛の対象と性欲の対象とを同じものだと思ってしまう。混同して錯覚してしまうんだ。じつはセックスしたいだけなのに、好きなのだと思ったり、セックスすることが、好かれていることなのだと思っていたり、好きではないのはわかっているけど、とにかくセックスしたいから好きだと言ってみたり、これはわざと錯覚するとでもいうのかな、まぁとにかく人間の性のややこしいことといったら、君も身に覚えがなくはないだろ。



抜粋はここまでです。
全部が全部、そうだな!ということではないのだけど、当然だと思っていたことを、改めて考えてみることのきっかけには、なるのではないかと感じます。

「14歳からの哲学」から、さらに続き

さて、友情というのは友達に対する愛情だ。友情は愛情のひとつのありようだ。では、愛情というのは、誰に対する、どんなありようのことなのだろう。

もしも君が、犬や猫やハムスターや、自分のペットを飼っているのなら、彼らに対する気持ち、あれが愛情の原点だ。大事で、いとおしくて、何がどうであれ、居てくれればそれでいいと思うだろ。少々噛みつかれたり引っかかれたりしても、まぁコイツのすることならいいやって、許しちゃうだろ。つまり、彼らのすべてを丸ごと受け入れて認めること、無条件の愛情だ。愛情というのは見条件であるものなんだ。

だた、ペットの場合は、彼らの方が無条件でなついてくるから、人間の方も無条件で受け入れやすい。難しいのが、人間同士だ。人間が人間を無条件で愛するというのは、ものすごく難しい。ある意味では、人はこれを学ぶためにこの世で生きていると言えるんだ。

たぶん、君のお母さんは、私は自分の子供を無条件で愛しています。親の愛こそ無私の愛ですと言うだろう。

「無私の愛」、つまり、私にとってこんなふうに得で、こんなふうに損だという計算が一切ない愛、相手を丸ごと認めて受け入れることができるのは、そこに「自分」がないからだ。でも、もし、親が子供を自分の子供だから愛するというのなら、親が愛しているのは、ひょっとしたら、その子供そのものではなくて、自分なのかもしれないね。愛しているのは、あくまでも自分なのかもしれないね。

さっきは、自分を愛することができない人は他人を愛することができないと言った。これはそれと反対のことを言っているように聞こえるかもしれないけど、そうじゃない。もしその人が本当に自分を愛しているのなら、他人に自分を愛させようとすることはないはずだ。そんなことをしなくても、自分で自分を愛しているからだ。でも、君のお母さんは、「お母さんの言うことをききなさい」っておこるだろ。言うことをきかない子供を、丸ごと認めて受け入れることができないのなら、本当に愛することはできないのかもしれないね。むろん、君のことを本当に愛しているからこそ叱ることがほとんどだろう。それがどっちなのかは、たぶん、お母さん自身よりも君の方がわかっているんじゃないかな。

まぁ、こんなふうに、自分の子供ですら本当に愛するということはとても難しい。ましてや、嫌いな人、イヤな人、見も知らない人を、君が君のペットを愛するように愛することができるようになるには、どんなに大変なことだろう。

どうして自分の好きな人だけを愛しちゃいけないんですか、どうして嫌いな人まで愛さなくちゃいけないんですかって、すごく素朴な疑問だよね。

≫ 続く




生き方コンシェルジュ くるりんからの提案
魂の求める生き方
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    プロフィール

日時 2月19日(日) 10時~11時半
場所 東京都東大和市南街6-11-2 くるりん
参加費 2000円



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「14歳からの哲学」から続き

自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛するということができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、実は自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね。

孤独というものはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友達といることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて心ゆくまで考えることができるからだ。

考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というものは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。もしこのことに気が付いたなら、君は、つまらない友達とすごす時間が、人生においていかに空虚で無駄な時間か、わかるようになるはずだ。だた友達が欲しいといって外へ探しに行く前に、まず一人で座って、静かに自分を見つめてごらん。

そんな風に自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発しあうことで、いっそう考えを深めていくことができるんだ。むろん全然語り合わなくったってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ。

本当の友情を知るということは、人生のひとつの喜びだ。うわべの付き合いだけの友達の多さなんかより、たった一人でも、君はそういう友達をみつけるのがいい。大丈夫、そう思っていれば、必ずおsれは見つかるよ。それまで君は、自分の孤独を、うんと豊かにして待っているんだ。だって、そうでなければ、素晴らしい友達が現れた時、君は彼に応えることができないじゃないか。

≫ 続く




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くるりん 村上

Author:くるりん 村上
インナーチャイルドの癒しのレッスンをしています。自分の考え方の癖に気がつき、目線を高くすると、見えてこなかった真実に気がついてきます。私たちのほとんどは、自分の人生を自分の足で歩いてはいません。世間体とか周りの人たりはみんな…という誰かの価値観の中で生きています。でも本来私たちは愛の存在であり、愛に包まれています。だから、私たちはもっと自由に自分らしく生きていいのです。その後に本来の自分の本当の姿が見えてきます。そうすると自分自身の足で自分自身の人生を歩き出すことができます。
その人特有の考え方の癖もインナーチャイルドなんです。
まだ作成途中ではありますが、ホームページを作ってみました。
http://kururin.wix.com/p-kururin

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