島田紳助氏引退会見で考えたこと

何があったかはわからないけど、彼のトークはけっこう面白かったから、引退は残念。

でも、表舞台からは姿を消しても、きっと面白いことを編み出してくれるに違いないと密かに楽しみにしている。


さて、彼の会見で気になったひとこと。


「自分はセーフだと思ったけど、芸能界のルールではアウトだった」


人は誰でもなにかしらのルールの中に生きている。

でも、その基準はわかっていると思い込んでいるけれど、けっこう、人によって違うことがある。

また、これくらいは普通知っているだろう…という普通は実は、人によって基準が違ったりする。


でも、みんな、「当然」「常識」と思って、疑問にも思わず、自分の基準が正しいと思い、生活をし、コミュニケーションをしている。

しかし、みんな微妙に違っていたりする。

そして、後から「え~!そういうことだったの?」と思ったり、「なんで、そう捉えるの?」って思ったりする。


それから、誰でもそれぞれの「正義」を持っている。

それは立場によっても、経験によっても違ってくる。

そして、どんなに丁寧に説明したと思っても、自分の「正義」に照らし合わせて「善し悪し」を判断することが多いし、自分の価値基準の中でしか理解できないということもある。


だから、同じ会場で同じ話をしたとしても伝わり方が違う。

同じ状況で苦しんでいる人に、同じ話をしても、天と地ほどの違いで伝わってしまう。

私も以前、「それは、白よね」という内容で話したつもりだったのに、後日、他の人から、その人はそのことについて、「黒だと言われた」と認識しているということを聞いて、驚いたことがある。


私の説明の悪さもあったけれど、その人の強く狭い価値基準、つまり固定観念が強く、「普通に考えていけば白だよね」ということが、結局伝わらなかったということになる。


じゃぁ、私はどうかと言えば、結構、「あぁ、そういうことね」と早とちりして、誤解してしまうこともある。


人はどうしても、聞きたいことしか聞こえない。

長々と話して、結論を導き出すための過程として話した、たった一言にこだわり、結局結論を聞いていない…

ということは、意外とあるのではないだろうか?


人に話すときは、どんなに細かく説明しても、誤解されて伝わる可能性があるという認識をもつこと、もちろん、正しく伝わる努力はするが、ある程度以上は、価値観が違う限り無理だということもあるということ。

そして、自分はできるだけ自分の価値観(常識と思っていること、ルールの基準で自分が当然だと思っていること、自分が当然正しいと思っていること等)をフラットにし、正確に聞く、何を聞きたいかではなく、その人は何を言いたいかを聞く努力を日々していくことが大切だな…と思った。

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正しい行為

私の家は特に信者ではないが、なぜかキリスト教の学校に縁がある。

まぁ、カトリックの学校というと、お嬢様というイメージがあるので、幼稚園なんかは、「女の子だから」という理由で、カトリックの幼稚園にいれたようだ。当時、日曜学校も流行っていたようで、父親が一時ハマっていたようだ。

しかし、私の父だけあって、長続きはしなかったようで、私が小学校にいく頃にはもう教会に行くこともなくなっていた。

高校は、第1志望の公立が落ちたので、滑り止めに受けた私立に入った。その関係で、大学も推薦でプロテスタント系ではあるが、キリスト教系の東京の大学にほとんど受験勉強もせずに入学できた。


高校では、「宗教」という授業が必須科目になっていて、もちろんキリスト教の聖書については学ぶけど、そのほかのいろんな宗教についての歴史やら、考え方の違いやら学ぶ。

しかし高校生の理解では、宗教の深い教えなど理解するはずもなく、他力本願やら自力本願やら、なんだか意味も分からずにただ理屈だけは身に付けたような感じだ。


聖書でも、例えばなしが多く、人により意味のとりかたが違うので、いろんな解釈がある。

また、イエス・キリスト本人が残している書面ではなく、後でお弟子さんがいろいろと思い出して書いているので、書く人の立場や価値観等で同じエピソードでも若干ニュアンスが違ってくることもある。

だから、「ではイエス・キリストは本当は何を言いたかったのか」ということを研究する、学問としても成り立つ。

そして、西洋の文化でもあるので、でてくるエピソードが、「え~!なんで~はてなマーク」と思えることも多く、ずっと頭に残っている内容のエピソードもある。


最近、近くの図書館で見つけた本、『聖書と「甘え」』(土居健郎著)という本の中に、その中の一つを見つけた。

ルカによる福音書十章にでてくる内容。


本 キリストがこの家に行ったときに、マルタがキリストをもてなすためにいろいろせわしく働いていたのに、マリアは全然手伝わないで、キリストの側に座って話を聞いていた。この態度にマルタがカチンときて、キリストに訴えた。

「先生、私の妹は私だけを働かせているのに、あなたはなんとも思わないのですか。彼女に私を手伝うように言いつけてほしい。」

すると、キリストは次のように言った。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことについて悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけだ。マリアはその一つを選んだのだから、取り上げるわけには行かない」 本


この本では「甘え」という視点から解説をしているので、それは実際に本で読んでください。


私は長女なので、いつも、姉マルタのような態度をとり、手伝わないずにいる妹マリアに対し不満を持つように、

「なんでいつも私だけ。妹や弟はずるい。」

と思っていましたし、何かあるといつも手伝いをしている私が怒られたり、したので、

「頑張っても認めてもらえない。がんばっていることをわかってもらえない」

という思いでいっぱいでした。

そして、マルタと徹底的に違うのは、「ひどいじゃん」と思っていることを、言葉で表現せずに、心の中で悶々と思っているだけだったということでしょうか。

でも、お客さんがくるのだから、キチンと準備をする手伝うという行為は正しい行為だし、誰かが忙しく働いているところで、遊んでいるのは、間違っている!って思っていました。


だから、このエピソードを初めて聖書で読んだ時に

「なんで~~!!ひどいじゃん、キリスト。マルタが可哀想じゃんメラメラ


やるべきことをやるのが当然だし、誰かがそこために忙しくしているのに、知らん顔して、自分だけ遊んでいるのは間違っている。マリアが怒られるのは当然だって思っていました。

だから一生懸命で真面目なマルタに同情していました。

そのマルタを叱ったキリストに怒りさえ感じていました。


そして、それから○○年たった今。

マルタの部分を残しつつ、マリア的になっていると思います。

そして、この時のキリストの言葉を今は、わかるようになりました。

だから、マルタのように、みんなが楽しそうに談笑しているときに一人で準備をしている時でも、以前のように心乱されることは無くなりました。

または、言葉で表現して、「これをやって欲しい」と直接お願いすることができるようになりました。


あなたは、このエピソードを読んで、どう感じましたか?

そして、どうしたいと思いましたか?

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プロフィール

くるりん 村上

Author:くるりん 村上
日本人が元々もっている内照するような感覚を日常に取り入れてみると、自分を客観視することができ、自分の考え方の癖に気がつき、見えてこなかった真実に気がついてきます。私たちのほとんどは、自分の人生を自分の足で歩いていないのです。世間体とか周りの人たちとか、みんな…という誰かの価値観の中で生きています。でも本来私たちは愛の存在であり、愛に包まれています。だから、私たちはもっと自由に自分らしく生きても、いいのです。
くるりんでいうところのインナーチャイルドとは?
ホームページはこちら。
http://kururin.wix.com/p-kururin

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