「死ぬ瞬間」と死後の生

とても良い本だとわかっているのに、私自身、とても必要な内容だとわかっているのに、どうしても開けない本がある。
本棚に置いてあるその本に、何度も手を伸ばすが、他の本を手にしてしまう。
そうやって何年も本棚に眠ったままの本。
マイケル・J・フォックスの「ラッキーマン」もそうだった。
はじめにの部分を呼んで、すでに辛くなってしまって、本棚に5年眠っていた。
読み終わったときに、しみじみと、あの時の私では、読めなかったな、無理だったな…と改めて思う。

E・キューブラー・ロスの「死の瞬間」もそうだ。
師匠のホームページで知って、中古の本屋さんで見つけて購入したはいいが…
何度も手を伸ばすが、本当に読めたのは、3年たってからだった。
あぁ、あのときに必要な内容が書いてあったじゃん、って思う。
そして、何冊か読んでみた。

別れが苦手だったわたしにとって、「死別」というのは、もっとも受け入れがたいものだった。
それがちょっとした知り合いで合っても、遺族の方の気持ちを思うと、なにも声をかけられず目をそらすしかなかった。

そして、最近知ったのが、『「死ぬ瞬間」と死後の生』という本。
読んでみたら、生きる人のための本だ。
こういうことを知ったうえで、生きることを考えようよ…という感じの内容。

死をダイレクトに考えたり、受け止めたりする内容は、本当に読み進むのが辛かったりするけど、この本は、とても入りやすい内容だと感じた。
しかも、生きる上で、ぜひ知っておいた方がいい内容。
年齢を重ね、棺桶に片足を突っ込んだなって思って、初めて、「さて…」と考える方が多いと思うけど、死というものを、年齢に関係なく、ちゃんと一度は考えて欲しいと思う。

若いければ若いほど、死が遠くに感じてしまい、永遠に生きれるように感じる。
そうしたら、大切なことをつい先延ばしにしてしまう。
目の前の快楽を追い求める、虚しい年を重ねてしまうだろう。

もし、死んだら消えてしまうだけ…と考えたら、耐えたり、辛抱する意味が理解できなくなってしまう。
わたしだったら、身体のことも考えず、好きなように、夜更かしして、ろくに食べもせずお酒を好きなだけのんで、たばこを吸って、その場その場を楽しもうとしてしまうだろうな。

じっくりと、味わいながら生きるためにも、「死」と「死後の生」のことを知っておいたほうが、死ぬ瞬間の後悔が少ないように思う。
死んだ後まで、「あぁしておけばよかった」「あぁしなければよかった」などど、後悔ばかりしたくない。
生きているうちだけで十分だって思う。
そのためにも、一度、死というものにじっくりと向き合いたいなって思う。

ところが、「死」とか「死後の世界」となると、取り扱かっているのは、結局、宗教ってなことになる。
私が、一番苦手としていた分野だ。
だけどくるりんでやっていることが、「死」や「死後の世界」も扱う以上、どうしても宗教色が強くなるのは、仕方のないこと。
元々は、哲学の世界では、宗教的な内容も含まれていたらしいし、科学と宗教との境は、あいまいだったようだ。
しかしいろんな歴史の中で、専門分野がきっちりとしてきたらしい。

どの分野でも、人が健康で、幸せに生きるってことがテーマであれば、結局、宗教的な「死」や「死後の世界」も考えあわせないと、なんだか無理が生じたり、分野によって、矛盾がでてきたりするように感じる。
近々、死後の生について、話をしていきたいな…。
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祈りについて

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19日は、「魂の求める生き方」という勉強会でした。
大切な内容だったので、遠方の方とか、予定がある方とかのために、DVDによる補講も可能にしようと考えていましたが、気が付くと録画がされていませんでした。楽しみにしていただいた方、申し訳ありません。
大切な内容なだけに、やはり、わざわざ足を運んでいただくことが大切なのかもと考え直しました。
内容に反省点もありましたので、また焼き直して、3月に行いたいと思います。

今回は、そのことについて書きたいのではなかった…。
くるりんでは、霊性やプラーナにかかわる勉強会(インナーチャイルドの癒しの勉強会もそうですが)、始まる前に、般若心経を読誦します。
勉強会の内容は私が独自に創作した内容ではなく、神様仏様からいただいた内容を私なりにお話しさせていただいていると、思っているからです。
神様仏様からいただいた内容といっても、よくあるような、天から降ってきたように神様の声が聞こえたりするわけではないですよ。
長年、古神道の神官である師匠に付いて修行をしていますが、そこでいただいた古の叡智から、現在版に書き換えて、私なりの理解で原稿をかいています。わたしは、見えも聞こえもしませんから、そこは期待しないでくださいね。

高い霊性の神様や仏様は、プラーナによってしか感じることはできないので、見えたり聞こえたりする霊感では感じることはできないないようです。また、次元が違うので、もし普段から霊感を感じる力を使っていると、残念ながらプラーナを感じるようになることはできません。自分では自覚していなくても、霊感を使える方は、けっこういるような印象を持っています。だから霊感は、必ずしも、特別な力ではないようです。しかし、パソコンと一緒で、使えるからと言って、セキュリティなしで、また、知識無しで使わないほうが無難でしょう。なりすましやフィッシングは、ネットの世界だけではないので…。

おっと、また話がそれてしまいました。
そういう意味で、より私たちの身近に感じる仏様にご守護をお願いするという意味も含め、勉強会の前に般若心経を読誦します。
個人レッスンの始まりも同じです。話に夢中になり、つい忘れてしまったりしますが…。

最近では、巷でも、般若心経を読誦する会とか、写経会なども盛んにおこなわれるようになっていますし、坐禅や呼吸法などのが「マインドフルネス」といって、海外でも盛んにおこなわれているようです。東京都内のお寺の坐禅会にいくと外国人の方がけっこういらっしゃいます。自己鍛錬もあるでしょうが、もっと気軽なリフレッシュ効果も期待されているようです。

また、祈りの効用も科学的に研究されているようで、実際に、オキシトシンやドーパミンなどの幸福感を感じたり、ストレスを緩和するのに大切なホルモンへの影響も実証されているようです。

へ~と思って、いろいろ考えてみると、どの宗教であれ、ほとんどの宗教の祈りの言葉というのは、ポジティブな言葉で成り立っていることに、今更ながら気が付きました。
神様に愛されているとか、許されているとか…祈りの言葉は、そんな言葉が多いのではないでしょうか。

では、私が毎日唱えている、神道では…
有名なところでは、「百体清浄太祓い」というのがあります。
そこに最後の方に出てくる言葉
「天地(てんち)の神と同根(どうこん)なり、天地の神と同根なるが故に、
萬物(ばんもつ)の霊(れい)と成る、萬物の霊となるが故に、
為(な)すところの願(ねが)いとして成就(じょうじゅ)せずということなし
慎(つつし)み敬(うやま)い申(もう)す。」

天地の神と同根なり…「自分は神様と同根なんだ」
自分はそういう存在であるという、これほどポジティブな言葉はないのではないでしょうか。
神様と同根だから、「これでいいのだ」と済ますことも出来ますが、だからこそ、それに恥じないような自分、神様と同根であるという誇りを持った自分で、少しでも、神様に近づけるようにと、遥かに遠いところを目指し、地道に努力し続ける。
「為すところの願いとして成就」、そんな意思表明のような神道の祈りを私は、とても美しいと感じます。
神道とは、文字通り神へ至る道です。神様を目指す、そんな神道という生き方は、本当に謙虚な生き方だなと、最近つくづく思うようになりました。

そして、日本では八百万の神といわれるように、なんでもかんでも神様が宿ると言います。人の魂も神様の分霊と言われます。そうなると、いたるところに神様がいます。有難いことです。有難いことですが、いたるところに在ると、無いも同じで、つかみどころがありません。まるで空気のような感じです。
つい無いように感じてしまい、有難みを忘れてしまいます。常に見守り、手を差し伸べられていることを忘れ、私たちはつい、もっとわかりやすいものを、ありがたがる傾向にあります。勿体ないことです。

祈りの時間…神道では神棚の前で唱える時間は、神様のことを想い、感じることのできる、貴重な時間でもあると、私は、とらえています。


「14歳からの哲学」から、おまけ

16 恋愛と性

「○○君は✖✖さんのことがすきなんだって!」というのが、友達の間では、いつもすごい関心の的になるよね。あるいは、同性の友達のことで悩むよりも、異性の友達についての関心の方が、もっと切実なものがあるかもしれない。どうしてそうなのだと思う?

これはまったく単純な理由だ。そこに性欲があるからだ。性欲、つまり性交をしたいという欲求だ。なぜ性交をしたいという欲求があるかといえば、子供をつくって子孫を増やすという生物としていの本能が、そうなっているからだ。性欲というのは食欲と同じ本能的な欲求で、その意味ではまったくの自然なんだ。

ところが、生物として子孫を増やすというそれだけのことなら話は単純なのだけれども、人間という生物の場合だけは、そう単純にはゆかない。他の動物の場合には、決まった発情期というのがあって、1年のうちその期間だけ発情して性交するという仕組みになっているのに、なぜか人間にだけは、発情期がない。つまり、年がら年中のべつまくなし発情している。いつでも性交できるし、いつでも性交したいという状態であるわけだ。

そうすると、それが本来は子供をつくるための本能の仕組みであったという事実を、人は忘れがちになる。忘れて、性交によって発生する快楽の側ばかり関心がゆくようになる。そのうえ、性交するたびに子供ができるのでは大変なことになるというので、性交しても子供ができないような工夫をも人間は開発したから、性交と生殖とを完全に切り離すことが可能になった。つまり、性交の目的を生殖ではなくて快楽に限ることができるようになったんだ。こうして、性交とは、生殖の欲求ではなくて快楽の欲求であると、実際に人々は思うようになっているというわけだ。

「○○君は✖✖さんのことがすきなんだって!」という話題に夢中になるのは、そこに、この快楽への予感があるからだ。本来は本能なのだけれども、字義通りには本能ではなくなっているところの、その快楽への欲求があるからだ。本能であるところの食欲が、食べること自体を楽しむことによって、さまざまな食文化があるように、本能であるところの性欲も性交すること自体を楽しむことによって、さまざまな性文化を生むことになる。食文化における料理に当たるものが、言ってみれば、性文化における恋愛だ。恋愛は料理、自然ではなくて、あきらかに文化の一種なんだ。人間の性が、他の動物と違って、話が単純でなくなる理由もここにある。

   (中略)

これはよく考えると、すごく不思議で面白いことなのだけど、多くの人は、この不思議に気が付かずに、というよりも、刹那の快楽への欲求に目がくらんで、恋愛の対象と性欲の対象とを同じものだと思ってしまう。混同して錯覚してしまうんだ。じつはセックスしたいだけなのに、好きなのだと思ったり、セックスすることが、好かれていることなのだと思っていたり、好きではないのはわかっているけど、とにかくセックスしたいから好きだと言ってみたり、これはわざと錯覚するとでもいうのかな、まぁとにかく人間の性のややこしいことといったら、君も身に覚えがなくはないだろ。



抜粋はここまでです。
全部が全部、そうだな!ということではないのだけど、当然だと思っていたことを、改めて考えてみることのきっかけには、なるのではないかと感じます。

「14歳からの哲学」から、さらにさらに続き

でも、その答えも、同じように素朴なものなんだ。いいかい、世の中には自分の嫌いな人、イヤな人がいる。でも、そういう人を嫌いだ、イヤだと思うその気持ちは、まさしくイヤなものじゃないか。自分にとってイヤなものじゃないか。自分にとってイヤなことはしないのが、自分を愛すると言うことだ。自分を愛する人は、自分を愛するからこそ、他人を嫌うということをしないんだ。そうじゃないか?

嫌いな人、イヤな人は、あぁ、そういう人なんだな、丸ごと認めて受け入れてあげるんだね。むろん大変なことだよ。でも、それが自分のためなんだ。それができなければ、君が自分を本当に愛することはできない。自分を愛していない人生を生きるというのは、とても苦しいものだ。だって、嫌いな人からは離れればいいけど、誰が自分から離れることができるだろう。嫌いな自分と四六時中一緒にいるなんてことが、苦しくないわけがないじゃないか。

自分とは世界なのだと、「他人」の章で気が付いた。だから、自分を愛するということが、そのまま、世界を愛するということなんだ。だから、もしも君が世のため人のために何かをしたいと願うなら、一番最初にしなければならないことは何か、もうわかるはずだ。

≪以上です≫




生き方コンシェルジュ くるりんからの提案
魂の求める生き方
   結果を求めるだけの生き方は、もうしない

    プロフィール

日時 2月19日(日) 10時~11時半
場所 東京都東大和市南街6-11-2 くるりん
参加費 2000円



お申込み&お問合せ
くるりん事務局まで


「14歳からの哲学」から、さらに続き

さて、友情というのは友達に対する愛情だ。友情は愛情のひとつのありようだ。では、愛情というのは、誰に対する、どんなありようのことなのだろう。

もしも君が、犬や猫やハムスターや、自分のペットを飼っているのなら、彼らに対する気持ち、あれが愛情の原点だ。大事で、いとおしくて、何がどうであれ、居てくれればそれでいいと思うだろ。少々噛みつかれたり引っかかれたりしても、まぁコイツのすることならいいやって、許しちゃうだろ。つまり、彼らのすべてを丸ごと受け入れて認めること、無条件の愛情だ。愛情というのは見条件であるものなんだ。

だた、ペットの場合は、彼らの方が無条件でなついてくるから、人間の方も無条件で受け入れやすい。難しいのが、人間同士だ。人間が人間を無条件で愛するというのは、ものすごく難しい。ある意味では、人はこれを学ぶためにこの世で生きていると言えるんだ。

たぶん、君のお母さんは、私は自分の子供を無条件で愛しています。親の愛こそ無私の愛ですと言うだろう。

「無私の愛」、つまり、私にとってこんなふうに得で、こんなふうに損だという計算が一切ない愛、相手を丸ごと認めて受け入れることができるのは、そこに「自分」がないからだ。でも、もし、親が子供を自分の子供だから愛するというのなら、親が愛しているのは、ひょっとしたら、その子供そのものではなくて、自分なのかもしれないね。愛しているのは、あくまでも自分なのかもしれないね。

さっきは、自分を愛することができない人は他人を愛することができないと言った。これはそれと反対のことを言っているように聞こえるかもしれないけど、そうじゃない。もしその人が本当に自分を愛しているのなら、他人に自分を愛させようとすることはないはずだ。そんなことをしなくても、自分で自分を愛しているからだ。でも、君のお母さんは、「お母さんの言うことをききなさい」っておこるだろ。言うことをきかない子供を、丸ごと認めて受け入れることができないのなら、本当に愛することはできないのかもしれないね。むろん、君のことを本当に愛しているからこそ叱ることがほとんどだろう。それがどっちなのかは、たぶん、お母さん自身よりも君の方がわかっているんじゃないかな。

まぁ、こんなふうに、自分の子供ですら本当に愛するということはとても難しい。ましてや、嫌いな人、イヤな人、見も知らない人を、君が君のペットを愛するように愛することができるようになるには、どんなに大変なことだろう。

どうして自分の好きな人だけを愛しちゃいけないんですか、どうして嫌いな人まで愛さなくちゃいけないんですかって、すごく素朴な疑問だよね。

≫ 続く




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「14歳からの哲学」から続き

自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛するということができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、実は自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね。

孤独というものはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友達といることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて心ゆくまで考えることができるからだ。

考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というものは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。もしこのことに気が付いたなら、君は、つまらない友達とすごす時間が、人生においていかに空虚で無駄な時間か、わかるようになるはずだ。だた友達が欲しいといって外へ探しに行く前に、まず一人で座って、静かに自分を見つめてごらん。

そんな風に自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発しあうことで、いっそう考えを深めていくことができるんだ。むろん全然語り合わなくったってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ。

本当の友情を知るということは、人生のひとつの喜びだ。うわべの付き合いだけの友達の多さなんかより、たった一人でも、君はそういう友達をみつけるのがいい。大丈夫、そう思っていれば、必ずおsれは見つかるよ。それまで君は、自分の孤独を、うんと豊かにして待っているんだ。だって、そうでなければ、素晴らしい友達が現れた時、君は彼に応えることができないじゃないか。

≫ 続く




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大人にも読んで欲しい「14歳からの哲学」

生きるのに、考えることが大切なことが書いてあります。
鵜呑みにするのではなく、自分ならどう思うか、どうするか…、考えて生きることが大切なのではないでしょうか?
一部抜粋してみます。



15 友情と愛情

友達関係のことで悩んいる人が多いみたいだ。
友達が少ない、友達がいない、いじめられている。逆に、友達の多さをリストに並べて自慢する人もいるらしいけど、そんなに重大な関心事がある友達って、いったいなんだろう。友達がいるかいないかということが、なぜそれほど大問題であるように思われるのだろう。

友達がいないことで悩んでいる君は、なぜそれが悩みなのかを考えたことがあるかしら。休み時間や行事の時など、友達がいないと淋しいし、つまらない。なるほど、たぶんそれはつまらないことだけども、ちょっとここで想像してみてごらん。それは、つまらない友達といるよりも、つまらないことかしら。つまらない友達といることの方が、一人でいることよりもつまらないことかしら。

そうではなくて、面白い友達がいることがいいんだね。冗談が上手で、遊びを知ってて、つまり君がほしいのは、面白い遊び友達というわけだ。でも、もしその遊び友達が、遊ぶのは一緒にできるけれども、君が最も興味のあること、知りたいこと、語り合ってみたいことには、興味がない人だったら、どうだろう。

   (中略)

自分が友達に本当に求めているのは何かとうことについて、一度ゆっくりと考えてみるといい。ただ一緒にワイワイやって面白いだけの友達というのは、やっぱりそれだけのことであることが多い。本当に面白いのは、決してつまらなくないのは、大事なことを語り合える友達だ。大事なことを語り合うのだから、信頼できる友達だ。お互いにその大事なことこそが大事なことなんだと、わかっているとわかっているから、信頼しあうことができるんだね。こういう友情というのは、本当にいいものだ。大事なことによってつながっているのだから、壊れるというkとがないんだ。

よく「友情が壊れた」っていう人がいるだろ。でも、壊れるような友情は、本当の友情じゃなかったんだ。本当に大事なことでなく、何らかの損得でつながっていただけなんだ。あの人と友達になると、こんな風に得で、こんあふうに損だとか、そんな計算を友達だと間違えていただけなんだ。

   (中略)

本当の友情、本当の友達こそがほしいのだけど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだ。でも、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。

一人でいることに耐えられない、自分の孤独に耐えられないということだね。でも、自分の孤独に耐えられない人が、その孤独に耐えられないために求めるような友達は、やっぱり本当の友達、本当の友情じゃないんだ。本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられるもの同士の間でなければ、生まれるものでは決してないんだ。なぜだと思う?

≫ 続く



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追記:そのほかの共依存の方の特徴

これは、書籍に載っていたものをそのまま抜粋していますが、捕捉として参考までに書いてみます。
前回書いた内容も含まれますが、共依存の方の特徴は、以下のようなことがあげられます。



・自分のことを後回しにして、人の世話をし、「自分がいなければ、ダメなんだ」と思いこんでいる。

・なだめたり、怒ったり、アドバイスしたり、おせっかいをしたりして、相手を変えようと必死になる。

・信頼することができないような人に無意識のうちにひかれてしまう。ハラハラドキドキしていないと空虚な感じがする。

・自分に自信がなく、1人でいると不安になって誰でもいいから一緒にいてほしいと思う。

・相手の問題で頭がいっぱいになり、そのほかのことはどうでも良くなり、友達から離れ、孤立してしまう。地域社会、自然などへの関心が薄く、自分と相手だけの狭い世界になる。

・問題が起きていても、あまりたいしたことないように思い込んだり、表面的に問題がないようにごまかしたりする。

・何かを頼まれると、「ノー」と言えず、「イエス」と言ってしまう。相手や他人の話が中心になり、自分を主体にする話ができない。

・相手の問題におせっかいにも入り込んでしまったり、落ち込んでいるのを見ると、自分も滅入ってしまったり、気分を変えようとする。相手の心的・性的・身体的な侵入を許してしまい、傷つく。

・いろんな感情の表現ができない。また、体に感じている不快感を無視して、無理な関係を続けてしまう。

・怒りの処理がわからず、突然爆発したり、みんなが避けるようなキレるタイプの人といつも一緒にいたり、弱いものに八つ当たりしたりする。陰で相手の悪口を言う。

・反射的にすぐに行動したり、せかせかと動き回って余計な心配をする。必要のない我慢はするが、じっくりプランをたてたり、静かに待つことができない。

・人に欠点を指摘されると、すぐに鵜呑みにしてしまう。問題があると、自分が悪いからだと思い込み、自分が努力すれば変わるだろうと必死になる。ほっとくと、罪悪感になる。

・小さい出来事にも大騒ぎする。白黒はっきりしすぎたり、自分が正しく相手が間違っているか、全部自分のせいだと思い込み、バランスが悪い。

・関係が悪くなったときに、少しでも改善されると、激しい憤りや悲しみを感じていたことなどを忘れて、相手の良い点だけが思い出される。苦い経験がら学ぶことができず、同じ問題を繰り返す。

・相手を救おうとしてうまくいかず、相手を責める。そして、あなたのせいでみじめになったと、被害者意識にとりつかれ、弱々しく感じる。

・相手が怒らないように、相手に合わせ、波風が立たないようにする。少しでも迷惑がかからないように異常な努力をし、和を保つ努力をまわりにも強制する。

・相手との関係にのめりこみ、胸がドキドキして相手から離れられなくなる、その人無しではいられなくことを愛情だと思い込んでいる。そのような恋愛ばかり求める。

・先生や上司、警察官、役人、怒鳴る男性などの前にでると、ビクビクして、声も出なくなる。そのような人からの批判や認められないことを恐れる。

・理想論や道徳論にとらわれ、「相手はきっと~するだろう」「こうなるはずだ」というファンタジーや、世間体やまわりの常識のせいにする。「みんながやっているから」「社会ではこうだから」

・相手の顔色をうかがって、空気を読んで、先回りして、次にどうしたらいいのかと心配するのに、忙しく、現状を理解していなかったり、今を楽しむことができない。

・出てくる感情や思考を否定したり、疑ったり、無視する。必要のないのに、ついうそを言って相手をかばったり、その場を取り繕って、真実をかくす。

・相手に幸せにしてもらいたいと思っている。人生の目的がはっきりせず、自分を大切にできなかったり、自己肯定感がなく、自己主張できない。



いかがだったでしょうか?
いくつご自身に当てはまりましたか?
「そういうところも少しはあるなぁ…」というくらいなら、共依存というほどのことではないのかもしれませんが、しっかりと当てはまる、自分の性格そのものだ…と感じたら、それは健全な関係ではないかもしれませんね。

人間関係で疲れてしまった、あなたへ~勉強会のお誘い

人の顔色をうかがってばかり…
空気を読んで、先回りばかりして…
人の幸せばかり考えてしまい、気が付くと自分のことが出来なくなっている…
「自分がいなければ」と、仕事も断れず、体調が悪くても無理をしてしまう…
自分のことを後回しにし、気が付くと人の面倒ばかりみている…
人のために一生懸命に考えたり、助けたりしているのに、気が付けばやっているのは、自分だけだ…

一生懸命に、まじめに、しかも人のことばかりやっているのに、なぜか、人との関係が良い方向になっていかない、というあなた。
今、あげたパターンは人との関係で、健全な関係とはいえないのです。
「共依存」という言葉を聞いたことはありますか?

相手のために、良かれと思ってただ、一生懸命に考えたり、行動しているのに、いつの間にか「うざい」とか「重い」と言われて、敬遠されてしまったりしていませんか?
そのような時、今までの人とのパターンを見直してみることも必要です。

でも、親から、学校の先生から
「クラスメートとは仲良くしなさい」
「喧嘩をしたらいけません」
「人のことを悪く言ってはいけません」
「わがままをいうと、人から嫌われますよ」
などど、教えられたのではありませんか?

それを、どんなときにでも、守ってまじめに生きてきただけでしょう。
しかし、親も先生も、それが「時と場合がある」という、臨機応変さは、あまり教えてくれなかったと思います。
程度や加減の問題で、「過ぎたるは及ばざるが如し」とは、言わなかったと思います。

友達と喧嘩したら、相手から吹っかけてきたことでも、怒られ、謝れといわれ、泣く泣く「ごめんなさい」と言ったこともあるででしょう。
なぜそうなったのか、状況や自分の気持ちを丁寧に聞いてもらったことがないでしょう。

そして、融通が利かないほど、言いつけ通りにまじめに生きてきた結果、とても生きづらくなってしまっていませんか?

親が、学校の先生が教えてくれない生き方…
今まで、考えもしなかった生き方…
そんな生き方あります。
生き方は変えることができるのです!

人間関係でへとへとに疲れてしまったあなたへ、聴いて欲しいことがあります。




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生き方コンシェルジュくるりん 勉強会のご案内

生き方コンシェルジュ くるりんが提案する生き方についての勉強会を行います。
くるりんが提案する生き方、それは

結果を求める生き方から、魂が求める生き方へ変えていくこと

結果を求めて、いろんなことがギチギチに辛くなってしまう…。
仕事も、恋愛も、結婚生活も、親子関係も、友達関係も…。
いつの間にか役割を求められて、それぞれの立場からの結果を求められ、出来ない自分がふがいなかったり、自分を責めたり、人を責めたり…。
人と比べては、辛くなったり、優越感を感じたり…。
逆にそんな生き方はイヤだと、はじめから結果なんて求めずに、覇気のない生き方になってみたり…。


結果を求める、結果がすべて…という生き方で、行き詰っているあなた。
結果がでているのに、なんだか満足感や充実感のないあなた。
生きることに虚しさや、埋まらないこころの隙間や、無味乾燥だと感じているあなた。

それは、魂が求める生き方を心の奥で願っているのかもしれません。




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プロフィール

くるりん 村上

Author:くるりん 村上
インナーチャイルドの癒しのレッスンをしています。自分の考え方の癖に気がつき、目線を高くすると、見えてこなかった真実に気がついてきます。私たちのほとんどは、自分の人生を自分の足で歩いてはいません。世間体とか周りの人たりはみんな…という誰かの価値観の中で生きています。でも本来私たちは愛の存在であり、愛に包まれています。だから、私たちはもっと自由に自分らしく生きていいのです。その後に本来の自分の本当の姿が見えてきます。そうすると自分自身の足で自分自身の人生を歩き出すことができます。
その人特有の考え方の癖もインナーチャイルドなんです。
まだ作成途中ではありますが、ホームページを作ってみました。
http://kururin.wix.com/p-kururin

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