さらに今日の新聞から

今日の読売新聞の「思潮」のページから
「誰かを悪者に仕立て上げ、徹底的にバッシングする現象が、近年繰り返されている。今月の論壇は、そんな日本社会の不寛容を考える論考が目をひいた」
とあった。

少し前なら考えられないような便利な社会になり、SFで出てくるような便利でセキュリティーのしっかりしたものがどんどん出てきて、どんなに安心して暮らせるのだろう…と思うのだけど…。

ネットや、ワイドショーなどで繰り広げられる、いろんな方の意見は、とても厳しいなと思うことも多い。
特に匿名で広く発言できるネットでは、バッシングとか叩くという暴力的な表現が合うほど、正義の名のもとに、容赦なく書き込まれる様は、とてもつらくて読んでいられなくなる。

言う方も、言われる方も、それを傍観している方も、なんか息苦しさを感じる。息苦しく生きているその表れとして、徹底的にバッシングしてしまうのだろう。

人に後ろ指をさされないようにといっても、今はそれがとても大変な世の中だと感じる。

正義ってなんだろう?って考えてしまう。
正義を訴えている人は、自分は絶対に後ろ指刺されない行いだけをしているのだろうか?
そうなのだろう。
では正義の人は、自分は幸せに楽しく、のびのびと自分らしさを生きている…と答えられるのだろうか?
そうなのだろう。正義こそ私だって思う。
では、その人の身近な家族は、正義の人とともに、幸せに楽しく、のびのびと自分らしさを生きているのだろうか?
そこに、穏やかさや、リラックスや、のんびり…という癒し的な要素はあるのだろうか?
そうなのだろう。でも私には、想像ができない。

どんどん便利になる世の中は、果たして、人間を幸せにしていけるのだろうか?


「生きる価値観を変えてみる」
あたなの人生にとって大切なのは、何ですか?

日時 4月9日(日) 10時~11時半
場所 諏訪湖ハイツ304
    長野県岡谷市長地権現町4丁目11
参加費 2000円

勉強会のお申込み&お問合せ
くるりん事務局


腰痛と認知行動療法

昨日の読売新聞に「腰痛に負けない」という記事が載っていた。
腰痛に悩む人は、全国に2800万人もいるそうだ。
さらに驚くことに、そのうちの約85%が、「非特異的腰痛」と呼ばれる、つまりは、原因不明の腰痛に悩んでいるという。

かく言う私も、以前は腰痛と股関節通、膝関節痛で悩んでいた。
悩んでいるというより、辛いが、あまり気にせずにそんなもんだとほっといていた。
ぎっくり腰も3度ほどやっている。

興味を持って読み進めていくと、以下の記述が…
― 非特異的腰痛の患者の特徴はありますか。
「この腰痛の一部に心理的ストレスが関係していることが近年、わかってきました」
「否定的な言葉で責められたグループと、肯定的な言葉で褒められたグループに分け、同じ負担を腰椎にかけた場合の腰痛の発生率を調べた研究が米国にあります。その結果、責められたグループに腰痛の発生率が高いことがわかりました。腰痛は心理的な面が大きく影響しているのです」
― 非特異的腰痛の患者への治療法はありますか。
「考え方や行動を変えることで、ストレスを軽減する認知行動療法がその一つです。1の痛みにこだわる人に対し、『1を0にする』のではなく、『1くらい大丈夫』と考えるクセをつけてもらうのが狙いです。」

と書いてあるではないか!
確かに、認知行動療法とまではいかないが、くるりんでのインナーチャイルドの癒しはそれに近いもの。
インナーチャイルドの癒しと昇華に取り組み、考え方のクセを変える取り組みをしてから、いつの間にか、腰痛も、股関節通も、膝関節痛もなくなっていた。
そして、すっかり忘れて今では、山に荷物を抱え、山頂でお鍋をやったりして楽しんでる。
そう、10年前くらいは、ひどい貧血もあったし、とても10㎏の荷物を抱えて山なんか登れなかった。

考え方のクセを変える取り組みをしてから、年々消化力もあがり、身体も頑丈になってきたようだ。



くるりんの個人レッスン

日常的にあるストレスにより、自分の思い込みに気づく作業からやっていきます。
毎回進み具合により、宿題があります。
 
料金 75分 7,000円
    高校生以上が対象です。(未成年の方は保護者の同意が必要です。)
 
毎週~隔週1回のペースでお越しください。
 
インナーチャイルドの癒やしは、今ままで自分を苦しめてきた、生き方、考え方の癖に気がつき、行動パターン、思考パターンを変えていく作業です。
地道で辛抱のいる作業です。
長く続けていくことが、自分の人生を充実感をもって生きて行くための早道です。
 
問題はないけれど、さらに生き方をステップアップしたい方、セラピストの方、霊性を向上させたいという方にも有効です。
 
ご家族のことで解決したいことがある場合も、あなた自身の霊性の向上によって解決できることもあります。

お問合せ⇒くるりん事務局

「諦める」ということ

頑張ってなんでも手に入れようとしてきた、往生際の悪い昭和の人間からみると、最近の若者の傾向は、はじめから諦めているような感じがします。
「悟りの世代」とも言われ、出世すること、極端な話、仕事をすること自体も「欲だ」と考え、働かない事、何もしないことを美徳とみるような傾向にあるのかな…とも感じられます。

お金さえあればの~んびりしたい
何もせずにいられるのなら、特に美味しいものを食べたいと思わない
出来る範囲で働いて、出来る範囲で遊ぶ…無理無茶はしない

一見スマートな生き方にも思えます。
わたしからみると、なんか物足りなさを感じますが、本人が満足なのだからそれでよいのでしょう。
夢を見ることや、頑張ってなにかを得ようとすることを、はじめから諦めている風にも見えます。

最近では、結婚はおろか、恋愛にも興味がない若者も多いと聞きます。
では仕事は…といえば、特になにかやりたいことがあるわけでもない。
遊びはといえば、そこそこいろいろやるけど、すごく打ち込むほどでもない。

それが満足であればいいのです。
なのに、「退屈」をすごく嫌がる傾向もあり、なんか無性にイライラしていたりします。
実際に、親の世代をみていると、頑張った先が幸せかというと、いろいろ犠牲を払って頑張ってもこれくらいかとか、
今の親の世代であれば、まだ頑張って年を取った先に、年金で割と楽に暮らせるとかあるけど、若者の世代はそれも当てにできない。ならば今頑張るより、楽して楽しいことを今やったほうが得じゃないか…って考えるのも仕方がないと思います。
そういう時代なのだから、仕方がないと言えば仕方がない…。

さてこの「諦める」ですが、意味を調べてみると…

  もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。(goo辞書)

他も見て見ましたが、大体が断念する…というような意味でした。
しかし、この「諦める」は、熟語になるとちょっと意味合いが変わってきます。
例えば「諦観(ていかん)」

 本質をはっきりと見きわめること。(goo辞書)

「てい」で辞書を引くと

 1 明らかにする。「諦視」
 2 締めくくり。まとめ。「要諦」
 3 あきらめる。「諦観・諦念」
 〈タイ〉仏教で、悟り。真理。「三諦・真諦 (しんたい) ・俗諦・妙諦」

となります。「諦」は仏教用語で使われる言葉でもあります。
それを書いてある良いサイトがありました。
 「諦める」一郷 正道(いちごう まさみち)(教授・仏教学)


そう考えると、同じ「諦める」でも、いろんな諦め方があるようですね。
私は、どうせ諦めるなら、やってダメだったと納得して諦める生き方をしてみたいもんだ…と思います。
まぁ、いままでは、ちょっと考えて、ダメそうだと感じたら、はじめから諦めてしまうような生き方をしてきたので…。
あれ?今の若者と変わんないじゃん!
あははは…ま、そんなもんでしょう。道理がわかれば、生き方が変わることってありますからね。



くるりんの個人レッスン

日常的にあるストレスにより、自分の思い込みに気づく作業からやっていきます。
毎回進み具合により、宿題があります。
 
料金 75分 7,000円
    高校生以上が対象です。(未成年の方は保護者の同意が必要です。)
 
毎週~隔週1回のペースでお越しください。
 
インナーチャイルドの癒やしは、今ままで自分を苦しめてきた、生き方、考え方の癖に気がつき、行動パターン、思考パターンを変えていく作業です。
地道で辛抱のいる作業です。
長く続けていくことが、自分の人生を充実感をもって生きて行くための早道です。
 
問題はないけれど、さらに生き方をステップアップしたい方、セラピストの方、霊性を向上させたいという方にも有効です。
 
ご家族のことで解決したいことがある場合も、あなた自身の霊性の向上によって解決できることもあります。

お問合せ⇒くるりん事務局

「死ぬ瞬間」と死後の生

とても良い本だとわかっているのに、私自身、とても必要な内容だとわかっているのに、どうしても開けない本がある。
本棚に置いてあるその本に、何度も手を伸ばすが、他の本を手にしてしまう。
そうやって何年も本棚に眠ったままの本。
マイケル・J・フォックスの「ラッキーマン」もそうだった。
はじめにの部分を呼んで、すでに辛くなってしまって、本棚に5年眠っていた。
読み終わったときに、しみじみと、あの時の私では、読めなかったな、無理だったな…と改めて思う。

E・キューブラー・ロスの「死の瞬間」もそうだ。
師匠のホームページで知って、中古の本屋さんで見つけて購入したはいいが…
何度も手を伸ばすが、本当に読めたのは、3年たってからだった。
あぁ、あのときに必要な内容が書いてあったじゃん、って思う。
そして、何冊か読んでみた。

別れが苦手だったわたしにとって、「死別」というのは、もっとも受け入れがたいものだった。
それがちょっとした知り合いで合っても、遺族の方の気持ちを思うと、なにも声をかけられず目をそらすしかなかった。

そして、最近知ったのが、『「死ぬ瞬間」と死後の生』という本。
読んでみたら、生きる人のための本だ。
こういうことを知ったうえで、生きることを考えようよ…という感じの内容。

死をダイレクトに考えたり、受け止めたりする内容は、本当に読み進むのが辛かったりするけど、この本は、とても入りやすい内容だと感じた。
しかも、生きる上で、ぜひ知っておいた方がいい内容。
年齢を重ね、棺桶に片足を突っ込んだなって思って、初めて、「さて…」と考える方が多いと思うけど、死というものを、年齢に関係なく、ちゃんと一度は考えて欲しいと思う。

若いければ若いほど、死が遠くに感じてしまい、永遠に生きれるように感じる。
そうしたら、大切なことをつい先延ばしにしてしまう。
目の前の快楽を追い求める、虚しい年を重ねてしまうだろう。

もし、死んだら消えてしまうだけ…と考えたら、耐えたり、辛抱する意味が理解できなくなってしまう。
わたしだったら、身体のことも考えず、好きなように、夜更かしして、ろくに食べもせずお酒を好きなだけのんで、たばこを吸って、その場その場を楽しもうとしてしまうだろうな。

じっくりと、味わいながら生きるためにも、「死」と「死後の生」のことを知っておいたほうが、死ぬ瞬間の後悔が少ないように思う。
死んだ後まで、「あぁしておけばよかった」「あぁしなければよかった」などど、後悔ばかりしたくない。
生きているうちだけで十分だって思う。
そのためにも、一度、死というものにじっくりと向き合いたいなって思う。

ところが、「死」とか「死後の世界」となると、取り扱かっているのは、結局、宗教ってなことになる。
私が、一番苦手としていた分野だ。
だけどくるりんでやっていることが、「死」や「死後の世界」も扱う以上、どうしても宗教色が強くなるのは、仕方のないこと。
元々は、哲学の世界では、宗教的な内容も含まれていたらしいし、科学と宗教との境は、あいまいだったようだ。
しかしいろんな歴史の中で、専門分野がきっちりとしてきたらしい。

どの分野でも、人が健康で、幸せに生きるってことがテーマであれば、結局、宗教的な「死」や「死後の世界」も考えあわせないと、なんだか無理が生じたり、分野によって、矛盾がでてきたりするように感じる。
近々、死後の生について、話をしていきたいな…。

祈りについて

201107280200.jpg

19日は、「魂の求める生き方」という勉強会でした。
大切な内容だったので、遠方の方とか、予定がある方とかのために、DVDによる補講も可能にしようと考えていましたが、気が付くと録画がされていませんでした。楽しみにしていただいた方、申し訳ありません。
大切な内容なだけに、やはり、わざわざ足を運んでいただくことが大切なのかもと考え直しました。
内容に反省点もありましたので、また焼き直して、3月に行いたいと思います。

今回は、そのことについて書きたいのではなかった…。
くるりんでは、霊性やプラーナにかかわる勉強会(インナーチャイルドの癒しの勉強会もそうですが)、始まる前に、般若心経を読誦します。
勉強会の内容は私が独自に創作した内容ではなく、神様仏様からいただいた内容を私なりにお話しさせていただいていると、思っているからです。
神様仏様からいただいた内容といっても、よくあるような、天から降ってきたように神様の声が聞こえたりするわけではないですよ。
長年、古神道の神官である師匠に付いて修行をしていますが、そこでいただいた古の叡智から、現在版に書き換えて、私なりの理解で原稿をかいています。わたしは、見えも聞こえもしませんから、そこは期待しないでくださいね。

高い霊性の神様や仏様は、プラーナによってしか感じることはできないので、見えたり聞こえたりする霊感では感じることはできないないようです。また、次元が違うので、もし普段から霊感を感じる力を使っていると、残念ながらプラーナを感じるようになることはできません。自分では自覚していなくても、霊感を使える方は、けっこういるような印象を持っています。だから霊感は、必ずしも、特別な力ではないようです。しかし、パソコンと一緒で、使えるからと言って、セキュリティなしで、また、知識無しで使わないほうが無難でしょう。なりすましやフィッシングは、ネットの世界だけではないので…。

おっと、また話がそれてしまいました。
そういう意味で、より私たちの身近に感じる仏様にご守護をお願いするという意味も含め、勉強会の前に般若心経を読誦します。
個人レッスンの始まりも同じです。話に夢中になり、つい忘れてしまったりしますが…。

最近では、巷でも、般若心経を読誦する会とか、写経会なども盛んにおこなわれるようになっていますし、坐禅や呼吸法などのが「マインドフルネス」といって、海外でも盛んにおこなわれているようです。東京都内のお寺の坐禅会にいくと外国人の方がけっこういらっしゃいます。自己鍛錬もあるでしょうが、もっと気軽なリフレッシュ効果も期待されているようです。

また、祈りの効用も科学的に研究されているようで、実際に、オキシトシンやドーパミンなどの幸福感を感じたり、ストレスを緩和するのに大切なホルモンへの影響も実証されているようです。

へ~と思って、いろいろ考えてみると、どの宗教であれ、ほとんどの宗教の祈りの言葉というのは、ポジティブな言葉で成り立っていることに、今更ながら気が付きました。
神様に愛されているとか、許されているとか…祈りの言葉は、そんな言葉が多いのではないでしょうか。

では、私が毎日唱えている、神道では…
有名なところでは、「百体清浄太祓い」というのがあります。
そこに最後の方に出てくる言葉
「天地(てんち)の神と同根(どうこん)なり、天地の神と同根なるが故に、
萬物(ばんもつ)の霊(れい)と成る、萬物の霊となるが故に、
為(な)すところの願(ねが)いとして成就(じょうじゅ)せずということなし
慎(つつし)み敬(うやま)い申(もう)す。」

天地の神と同根なり…「自分は神様と同根なんだ」
自分はそういう存在であるという、これほどポジティブな言葉はないのではないでしょうか。
神様と同根だから、「これでいいのだ」と済ますことも出来ますが、だからこそ、それに恥じないような自分、神様と同根であるという誇りを持った自分で、少しでも、神様に近づけるようにと、遥かに遠いところを目指し、地道に努力し続ける。
「為すところの願いとして成就」、そんな意思表明のような神道の祈りを私は、とても美しいと感じます。
神道とは、文字通り神へ至る道です。神様を目指す、そんな神道という生き方は、本当に謙虚な生き方だなと、最近つくづく思うようになりました。

そして、日本では八百万の神といわれるように、なんでもかんでも神様が宿ると言います。人の魂も神様の分霊と言われます。そうなると、いたるところに神様がいます。有難いことです。有難いことですが、いたるところに在ると、無いも同じで、つかみどころがありません。まるで空気のような感じです。
つい無いように感じてしまい、有難みを忘れてしまいます。常に見守り、手を差し伸べられていることを忘れ、私たちはつい、もっとわかりやすいものを、ありがたがる傾向にあります。勿体ないことです。

祈りの時間…神道では神棚の前で唱える時間は、神様のことを想い、感じることのできる、貴重な時間でもあると、私は、とらえています。


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プロフィール

くるりん 村上

Author:くるりん 村上
日本人が元々もっている内照するような感覚を日常に取り入れてみると、自分を客観視することができ、自分の考え方の癖に気がつき、見えてこなかった真実に気がついてきます。私たちのほとんどは、自分の人生を自分の足で歩いていないのです。世間体とか周りの人たちとか、みんな…という誰かの価値観の中で生きています。でも本来私たちは愛の存在であり、愛に包まれています。だから、私たちはもっと自由に自分らしく生きても、いいのです。
くるりんでいうところのインナーチャイルドとは?
ホームページはこちら。
http://kururin.wix.com/p-kururin

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