「14歳からの哲学」から、おまけ

16 恋愛と性

「○○君は✖✖さんのことがすきなんだって!」というのが、友達の間では、いつもすごい関心の的になるよね。あるいは、同性の友達のことで悩むよりも、異性の友達についての関心の方が、もっと切実なものがあるかもしれない。どうしてそうなのだと思う?

これはまったく単純な理由だ。そこに性欲があるからだ。性欲、つまり性交をしたいという欲求だ。なぜ性交をしたいという欲求があるかといえば、子供をつくって子孫を増やすという生物としていの本能が、そうなっているからだ。性欲というのは食欲と同じ本能的な欲求で、その意味ではまったくの自然なんだ。

ところが、生物として子孫を増やすというそれだけのことなら話は単純なのだけれども、人間という生物の場合だけは、そう単純にはゆかない。他の動物の場合には、決まった発情期というのがあって、1年のうちその期間だけ発情して性交するという仕組みになっているのに、なぜか人間にだけは、発情期がない。つまり、年がら年中のべつまくなし発情している。いつでも性交できるし、いつでも性交したいという状態であるわけだ。

そうすると、それが本来は子供をつくるための本能の仕組みであったという事実を、人は忘れがちになる。忘れて、性交によって発生する快楽の側ばかり関心がゆくようになる。そのうえ、性交するたびに子供ができるのでは大変なことになるというので、性交しても子供ができないような工夫をも人間は開発したから、性交と生殖とを完全に切り離すことが可能になった。つまり、性交の目的を生殖ではなくて快楽に限ることができるようになったんだ。こうして、性交とは、生殖の欲求ではなくて快楽の欲求であると、実際に人々は思うようになっているというわけだ。

「○○君は✖✖さんのことがすきなんだって!」という話題に夢中になるのは、そこに、この快楽への予感があるからだ。本来は本能なのだけれども、字義通りには本能ではなくなっているところの、その快楽への欲求があるからだ。本能であるところの食欲が、食べること自体を楽しむことによって、さまざまな食文化があるように、本能であるところの性欲も性交すること自体を楽しむことによって、さまざまな性文化を生むことになる。食文化における料理に当たるものが、言ってみれば、性文化における恋愛だ。恋愛は料理、自然ではなくて、あきらかに文化の一種なんだ。人間の性が、他の動物と違って、話が単純でなくなる理由もここにある。

   (中略)

これはよく考えると、すごく不思議で面白いことなのだけど、多くの人は、この不思議に気が付かずに、というよりも、刹那の快楽への欲求に目がくらんで、恋愛の対象と性欲の対象とを同じものだと思ってしまう。混同して錯覚してしまうんだ。じつはセックスしたいだけなのに、好きなのだと思ったり、セックスすることが、好かれていることなのだと思っていたり、好きではないのはわかっているけど、とにかくセックスしたいから好きだと言ってみたり、これはわざと錯覚するとでもいうのかな、まぁとにかく人間の性のややこしいことといったら、君も身に覚えがなくはないだろ。



抜粋はここまでです。
全部が全部、そうだな!ということではないのだけど、当然だと思っていたことを、改めて考えてみることのきっかけには、なるのではないかと感じます。

「14歳からの哲学」から、さらに続き

さて、友情というのは友達に対する愛情だ。友情は愛情のひとつのありようだ。では、愛情というのは、誰に対する、どんなありようのことなのだろう。

もしも君が、犬や猫やハムスターや、自分のペットを飼っているのなら、彼らに対する気持ち、あれが愛情の原点だ。大事で、いとおしくて、何がどうであれ、居てくれればそれでいいと思うだろ。少々噛みつかれたり引っかかれたりしても、まぁコイツのすることならいいやって、許しちゃうだろ。つまり、彼らのすべてを丸ごと受け入れて認めること、無条件の愛情だ。愛情というのは見条件であるものなんだ。

だた、ペットの場合は、彼らの方が無条件でなついてくるから、人間の方も無条件で受け入れやすい。難しいのが、人間同士だ。人間が人間を無条件で愛するというのは、ものすごく難しい。ある意味では、人はこれを学ぶためにこの世で生きていると言えるんだ。

たぶん、君のお母さんは、私は自分の子供を無条件で愛しています。親の愛こそ無私の愛ですと言うだろう。

「無私の愛」、つまり、私にとってこんなふうに得で、こんなふうに損だという計算が一切ない愛、相手を丸ごと認めて受け入れることができるのは、そこに「自分」がないからだ。でも、もし、親が子供を自分の子供だから愛するというのなら、親が愛しているのは、ひょっとしたら、その子供そのものではなくて、自分なのかもしれないね。愛しているのは、あくまでも自分なのかもしれないね。

さっきは、自分を愛することができない人は他人を愛することができないと言った。これはそれと反対のことを言っているように聞こえるかもしれないけど、そうじゃない。もしその人が本当に自分を愛しているのなら、他人に自分を愛させようとすることはないはずだ。そんなことをしなくても、自分で自分を愛しているからだ。でも、君のお母さんは、「お母さんの言うことをききなさい」っておこるだろ。言うことをきかない子供を、丸ごと認めて受け入れることができないのなら、本当に愛することはできないのかもしれないね。むろん、君のことを本当に愛しているからこそ叱ることがほとんどだろう。それがどっちなのかは、たぶん、お母さん自身よりも君の方がわかっているんじゃないかな。

まぁ、こんなふうに、自分の子供ですら本当に愛するということはとても難しい。ましてや、嫌いな人、イヤな人、見も知らない人を、君が君のペットを愛するように愛することができるようになるには、どんなに大変なことだろう。

どうして自分の好きな人だけを愛しちゃいけないんですか、どうして嫌いな人まで愛さなくちゃいけないんですかって、すごく素朴な疑問だよね。

≫ 続く




生き方コンシェルジュ くるりんからの提案
魂の求める生き方
   結果を求めるだけの生き方は、もうしない

    プロフィール

日時 2月19日(日) 10時~11時半
場所 東京都東大和市南街6-11-2 くるりん
参加費 2000円



お申込み&お問合せ
くるりん事務局まで



「14歳からの哲学」から続き

自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛するということができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、実は自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね。

孤独というものはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友達といることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて心ゆくまで考えることができるからだ。

考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というものは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。もしこのことに気が付いたなら、君は、つまらない友達とすごす時間が、人生においていかに空虚で無駄な時間か、わかるようになるはずだ。だた友達が欲しいといって外へ探しに行く前に、まず一人で座って、静かに自分を見つめてごらん。

そんな風に自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発しあうことで、いっそう考えを深めていくことができるんだ。むろん全然語り合わなくったってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ。

本当の友情を知るということは、人生のひとつの喜びだ。うわべの付き合いだけの友達の多さなんかより、たった一人でも、君はそういう友達をみつけるのがいい。大丈夫、そう思っていれば、必ずおsれは見つかるよ。それまで君は、自分の孤独を、うんと豊かにして待っているんだ。だって、そうでなければ、素晴らしい友達が現れた時、君は彼に応えることができないじゃないか。

≫ 続く




生き方コンシェルジュ くるりんからの提案
魂の求める生き方
   結果を求めるだけの生き方は、もうしない

    プロフィール

日時 2月19日(日) 10時~11時半
場所 東京都東大和市南街6-11-2 くるりん
参加費 2000円



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幸せって…?

12月1日~8日まで間、日本中…、もしかしたら世界中の禅寺のお坊さんは、ずっと坐禅をしています。
夜は座って身体を休めるだけ、あとは、食事やトイレ、洗面以外は、ずっと坐禅をしているとのこと…。
12月8日は、お釈迦様が悟りを開かれた日。それにならって、おなじように1週間、ほとんど不眠不休で坐禅を組むそうです。

いつも坐禅会でお世話になっている、長野県岡谷市の久保寺(きゅうほうじ)では、その期間朝と晩に坐禅会が催されます。
くるりんでは、2日の夜の坐禅会と3日の朝の坐禅会に参加してきました。
2日の夜の坐禅会は、副住職さんによる坐禅会が行われました。
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ご住職よりも、物静かで、ソフトで優しそうな印象なのですが、ちょっとした会話のなかに、ストイックさが感じられます。
修行に対する厳しさをおもちなのではないのではないか…と感じられます。
終わった後は、甘酒です。ショウガが入っていて、芯から冷え切った体に、しみわたります。

3日目の朝の坐禅会は、ご住職による坐禅会です。
寒さで身が引き締まります。
終わった後は、朝粥が出ます。
奥様が作られた、梅干しと、漬物…、これがまたおいしい。
そして、禅のお作法を教わりました。

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豊かな社会にあって、このような質素な食事ですが、なぜか心が豊かになります。
おいしいものは巷にたくさんあるのに、こんな贅沢な気持ちには、なかなかなれません。

私たちは、頑張れば、幸せになれるって思っていましたし、そのように教育されてきました。
そして、勉強をがんばり、部活をがんばり、習い事を頑張り…
仕事に就けば、少しでも給料があがるように頑張り、実績が伸びるように頑張り、スキルがアップするように頑張り…
プライベートでは、モテるように頑張り、人気者になれるように頑張り、充実するように趣味や遊びに頑張り…

その結果、幸せになれたでしょうか?
もし、幸せでないとしたら、まだまだ頑張りが足りないからでしょうか?
今よりも、もっともっと頑張れば、今よりも、もっともっと幸せになれるのでしょうか?

仏教には、人が幸せに生きるため教えがたくさんあります。
坐禅会は、8日の朝まで行われます。
飛び入りでの参加も歓迎ということですので、一度、参加してみてはいかがでしょうか?

温故知新な生き方…神道

神道のあり方をみていると、宗教という言葉ではなんかマッチしないように感じるのは、わたしだけでしょうか?
お墓参りもして、神社に手を合わせ、クリスマスや、イースターを祝う…。

そんな国民性は、もともと日本にある神道の在り方にあるのではないかと感じます。
八百万の神様がいて、山にも、木にも、石にも…あらゆるものに神様が宿っていると考えると、他の宗教のお祭りを祝っても、なにも問題がない…
世界にも類をみない国民でしょう。

神道を宗教としてみるのではなく、ちょっと視点を変えてみてみましょう。
自分の人生の生き方をどうするか…?
そう考えた時に、

大富豪を目指すも良し
恋愛に生きるのも良し
心身を鍛練することに一生懸命になるのも良し
仕事で大成功をするのも良し

でもそんなこととは無縁で、ひたすらに自己成長を目指す生き方もあるのではないかと思うのです。

そして神様と親しくなり、神様のような在り方を目指していく、…まさに神へと至る道が、神道ではないかと思います。

しかし、神様を目指すと、とても遠い目標なので、

人と比べることもなく、
現状にがっかりすることもなく、
とはいっても、現状に満足することもなく、
すぐに結果が出るようなことでもないですので、
良い結果を求めるのでもなく、
ただ一生懸命に、今いる瞬間瞬間を、前向きに生きる…

そんな生き方そのものが神道なのではないかと感じるのです。
そしてそんな生き方をしていると、自然と様々な苦しみや不安が減っていくのを感じます。

ここ数年、大きな災害、不安定な国際情勢、どんどん悪化していく経済状況…
今までの常識が通用しないような世の中だからこそ、神道のような生き方が求められているのではないでしょうか。

神道は一見、地味で古臭く、非効率的で非生産的な生き方のようですが、
実は、最も新しい生き方ではないかと、私は思います。
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プロフィール

くるりん 村上

Author:くるりん 村上
日本人が元々もっている内照するような感覚を日常に取り入れてみると、自分を客観視することができ、自分の考え方の癖に気がつき、見えてこなかった真実に気がついてきます。私たちのほとんどは、自分の人生を自分の足で歩いていないのです。世間体とか周りの人たちとか、みんな…という誰かの価値観の中で生きています。でも本来私たちは愛の存在であり、愛に包まれています。だから、私たちはもっと自由に自分らしく生きても、いいのです。
くるりんでいうところのインナーチャイルドとは?
ホームページはこちら。
http://kururin.wix.com/p-kururin

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